前回の記事はImageJ のインストール方法とかが主だったけど、実際に使ってみる。有名な、筆頭著者のNature の Article のfig.1i の電気泳動の図だけど、一発で切り貼りを提示できる。

pdfでダウンロードしたファイルから図の部分をPhotoshopで読みpng として保存する。このpng ファイルをImageJ で開き image → Type → 8bit でモノクロに変換する。さらに、image → Adjust → Threshold で適当に調節すると

レーン3の切り貼りが一目瞭然だ。こっちのほうがPhotoshopdで明るさやコントラストを変えるより、簡単ではっきりする。管理人の研究分野では電位泳動の図のある論文査読なんてまずないから使わないだろうけどね。
しかし、査読でこんなの見つけたらがっかりしちゃうから調べたくないよね。
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モル濃度
高等学校の理科は生物基礎と生物あるいは化学基礎と化学のように2本立てで、基礎とつくのが必須、つかないのがさらに進んだ内容で選択というのが普通だ。だから化学基礎はすべての新入生は履修してきたわけだ。
文科省の高等学校学習指導要領解説の56pによると化学基礎については;
(ア) 物質量について
中学校では,第1分野「(2)イ(ア) 物質の溶解」で,質量パーセント濃度について学習している。
略
物質量とその単位である「モル」を導入し,原子量,分子量,式量との関係やモル質量との関係
を扱う。また,気体については体積と物質量との関係,溶液については溶液の体積と溶質の物質量
との関係を表すモル濃度も扱う。
とあるわけで、モル濃度の概念はわかっているはず。
しかし、AO入試で早稲田大学に入った優秀な筆頭著者ですら、大学院を卒業しても、モル濃度の溶液が調整できない・現実に作成できない(110.57mg の ATPを 1ml の水に溶かして200mMとするなんて書いている)ことからもわかるように、早稲田には及ばない中小私立大学の学生さんには、”はず”があてはまらないのだ。
浸透圧実習を行ったのだが、大名実習で蔗糖の0.5 モル、1モル溶液を教員側が準備したので、学生さんにはモル濃度の調整の設問をレポートの課題として与えたのだ。毎年のことなんだけどね。
0.2 Mの蔗糖液を100 ml を作る方法を説明しなさい。蔗糖の分子量は342.3 である。
という設問である。モル濃度の溶液の調整方法は年度当初に、「単位の話」という小冊子で、なぜ医学では圧力をパスカルで表示しないのか等を含めた読み物を提供してある。学生同士が相談してもいい。ネットや教科書で調べてもいいという状況である。
ほとんどの学生さん(95名)が 342.3[g] X 0.2[モル] X 0.1[100/1000 ml] = 6.846 g の計算はできている。全員が計算できたかどうかはわからない。多分、友人の結果のコピペが何人もいるだろう。しかし、問題は、この6.846 g の蔗糖をどうやって溶かすかである。

正解は100 ml弱の水にまず溶かしてから水を加え、100 ml にするであるが、予想通り水100 ml に溶かすが最も多い答えになった。毎年のことだ。
93.154 ml あるいは93.154 g の水に溶かすというのは中学で習った重量%濃度が尾を引いているんだろうな。
こういう記述問題を出すと、必ず意味不明な文や、記載が不十分な回答が出て来る。単に「6.846 gを溶かせばいい」とかである。
昨年度は正解者が17%だったので、今年のほうがはるかに良い。良いといってもこの程度だけどね。
最終的に100 ml に調整するわけだが、ビーカーを使ってというのが多く、メスフラスコでという答えは一人だけだった。高校では実際にモル濃度の液体を作らせていないんだろうな。
なぜこのような面倒な操作をするかの解説を行った上で、再度期末試験に出すわけだ。計算ができない学生がいるから、正解者は半分いるかいないか程度になるだろう。
ま、こんなもんでしょうね。教えがいがないというのか、1/4だったのが半分ができるようになったのはすばらしいというのか、よくわからん。
かもしれない ではね。
個人のブログなんだから何を書いても、どんな意見を表明してもいいけど、小説ではないのだったら、しっかり根拠がをもって、書いてほしい。約80の文で構成された記事のうちの約半分の文が「だろう」「かもしれない」で終わるようなブログを書いてなにが言いたいんだろ?
学とみ子のブログの「須田氏はこの時点で、GRASに残っている検体の遺伝子解析をすれば、ESねつ造説が確定すると考えている。」は、引用部分を除くと78の文から構成されている(数え方によって違うかもしれないけど)のだが、その文の最後の語句を集め、断定している文とそうではない(非断定)文とを分けてみると:
| 断定文 | 非断定 | ||
| 数 | 数 | ||
| である。 | 6 | かもしれない。 | 13 |
| がある。 | 4 | ようだ。 | 6 |
| しまった。 | 2 | ようだった。 | 2 |
| だけだ。 | 2 | であろう。 | 6 |
| 考えてみたい。 | 2 | 感じだ。 | 2 |
| しまっている。 | 2 | と思う。 | 2 |
| かいてある。 | 2 | 1回だけ使われている語句 | 6 |
| 書いている。 | 2 | ||
| わからない。 | 2 | ||
| しない。 | 2 | ||
| 1回だけ使われている語句 | 13 | ||
| 計 | 39 | 37 | |
| 1回だけ使われている語句とは ていた。戻す。 信じていた。 しない。 他 |
1回だけ使われている語句とは ありそうだ。だろう。 想像できる。 様子だ。見える。 思われる。 |
||
となるのだ。他所様のブログを解析してなんになる?といわれたらそれまでだけど、約半分が「かもしれない」「ようだ」で終わる文から成る記事は、その自らの想像・推定を根拠として論理を組み立てているのだから、記事全体が妄想と言われてももしょうがないでしょうね。論文の考察がこんなんだったらボロクソに言われるのは間違いのないところです。学とみ子のブログは小説とは思えませんからね。
ちなみに論文・レポートらしい表現という記事では「かもしれません」は論文・レポートでは”使いにくい表現”の例になっています。この記事は台湾在住の日本人が日本語nativeではない人のために日本語論文を書くために作成した指導要領(正しいかどうかわからない)のようで、妥当なことが書かれています。”使いにくい表現”とありますように使ってはいけないわけではありません。
月も金星も動いているのは間違いない。だから、明日、月が金星に衝突するかもしれず、その結果、月が地球に落ちてくるかもしれない。だからシェルターを購入しよう。なんて書いていたらアホかと言われ無視されるのが落ちでしょ。
ちなみに一研究者さんの記事を同じように解析してみたら、断定文が34,非断定文が14でした。意見を表明する場合、この位の比率が普通かどうかはわかりません。また、一研究者さんの記事が対照としてふさわしいかどうかは別の問題で、科学者と思われる方の書いた記事の1例としてあげただけです。内容の妥当性とは関係ありません。
マニュアルを読めないかも
今時の若者はマニュアル人間だなんてことをよく聞く。マニュアル通りにはできるが応用が効かないとかいう意味で年長者がけなすわけだ。これが正しいかどうかはわからない。
管理人の担当している実習では実習書というマニュアルを、当然のことながら、用意してある。

なんとこの実習書は180ページを超えているのだ。こんなに分厚い実習書は多分どこにもないだろう。簡単な説明では学生さんは実施できないので、step-by-step で説明することになり、長くなってしまったのだ。180ページ余りを綴じて冊子にして学生さんに渡しているわけではない。学生さんは実習前に読んで臨むなんてことがないし、予め渡すと、実習当日持参してこないのだ。だから毎回該当する数ページ〜十数ページ分を実習当日配布するわけだ。勿論、予め知りたいという学生さんは、ネットにpdf がアップロードされているからこれを読めばいい。そんな学生さんはめったにいないけれど。
予め読んでいるわけがないから、実習の開始時に読ませ、その後、口頭で目的、手順等を解説するわけだ。読んで、わかるとは思えないからな。口頭では大まかに説明し、実習書にはstep毎に記載してあるからその通りやってよねというわけだ。
毎年、最初の3回はレポートの書き方と統計処理・検定の方法なので、連休が明けて、本格的な実験がようやく始まったのだ。
今年の学生には、マニュアルを読めないのがかなりいるようなのだ。読ませているときの学生の態度から判断できる。
一応、読む学生は、マーカーなどで、重要と思われる部分をマークする。理解しているかどうかは別として、文章のパターンで、ここが要らしいと判断するわけだ。ところがこのような動作をする学生が例年と比べ少ない。すぐに顔をあげて、キョロキョロ始めたり、実習器具をいじったりし始めるのだ。明らかに実習書を読んでいないというか読めないのだ。長いからな。かなり絵、写真があって文章だけではない実習書なのにだ。
マニュアル人間どころか、その手前なのだ。弱ったな….
マンガにするわけにいかないしな…
こんな医者もいた
学とみ子というわけのわからない意見をブログで表明しているのは医者らしいのだが、まだ他にもいる。勿論、内海なんかが超有名だけど、また別口を知った。黒部信一という慶應義塾大学医学部卒の小児科医だ。
黒部信一のブログの日本脳炎ワクチンを廃止しようという記事によると;
その(獲得免疫の)仕組みは、利根川博士によって解明されました。一つの遺伝子が断片となって存在し、それらを合成して抗体を作ります。そして胎児発生の過程で胎児の細胞からリンパ球ができる際に遺伝子の配列に再構成が起こり、抗体遺伝子の構造が変化するというのです。一度獲得された免疫の記憶は、遺伝子によって一生残ります。これが次の世代に受け継がれると、私は推論します。それ故、世代を経るごとに感染しても発病率や後遺症率、致命率が低くなり、軽症化します。これが私のとる病原環境説または適応説です。
だそうな。
あのさ、T細胞の遺伝子再構成が子供に伝わるわけがないでしょ。生殖細胞は発生の初期から体細胞とは独立するので、獲得形質は遺伝しないというのは医学・生物学の常識だろうが。もし、T細胞の再構成された遺伝子が子供に伝わったら、その子供は1種類の抗体しか作れない・免疫不全になるだろうが。あんた、本当に医学部出たの?
すべてのワクチン接種を否定しているわけではないようだけれど;
最近登場したヒブワクチン、肺炎球菌ワクチンは前に述べたように、常在菌ですから、叱らずのびのびと子どもを育てると、かかりません。
はないでしょ。内海の「自閉症など障害児は親の不摂生が原因だ」とどっこいどっこいの考えですな。
乳幼児のビフ感染症とか肺炎の責任は親の育て方かよ。「私は子供をのびのびそだてているからビフワクチン接種をしません」なんて親がいて子供が髄膜炎になったら、あんたのせいだよ。困るよね、医師のくせに独りよがりの考えをおしつけちゃ。
天然痘は地球上から絶滅したからワクチンを打つ必要がないことになった。しかし日本脳炎は絶滅したわけではない。東南アジアから持ち込まれるから、接種したほうがいい。麻疹だってワクチン打っていない人がかなりいるからパンデミックにはなってないけど結構拡散しているだろうが。40代以上はほとんどが麻疹に感染したけ経験があり(昔はすごかった。麻疹の子供がいると敢てその子供に自分の子供を接触させに行かせたのね、接触でほぼ完璧に感染するからね。)、抗体を持っているけど、麻疹の抗体産生が遺伝するのなら、その子供である若者は麻疹に感染しないだろ?上記のようなでたらめな考えの医者の言うことは聞きたくない。
大学の教育改革
一研究者・教育者の意見 というブログの2017年05月02日 文科省の政策の果てにという記事で、一研究者さんは
「国立大学への交付金が削減されてきたが、その削減分は競争的資金として文科省のお目にかなう大学改革を実施している大学に配分されている。大学改革とは大学の教育改革だ。その結果、大学全体が受け取る「交付金」総額はかわらないものの、各大学で様々な教育改革を計画・実施しないと、「交付金」は結局減額されてしまうので、大学教員はこの新規な計画立案に忙殺され研究ができない。」と指摘している(もうちょっと横道にそれない展開にしてほしいけど、こういう指摘をしてれば一研究者さんもいいのだけどね、)。
もう、目の前の仕事としてこのような大学の教育改革(大抵の場合は組織構成を伴う改革だ)につきあうことはないのだが、元の大学へ仕事で行くと、この指摘通り、教授クラスのみならず研究三昧であるべき若手の教員にも負荷が掛かっているのがわかる。例えば、これまでの学位(博士など)の授与機構である大学院研究科制度を止めて、学位授与プログラムとかに改組するなどが画策されているらしい。これは、大学院定員を満たさない研究科があると交付金減額になるわけで、これを防ぐためには、組織を大きくして全体として定員の過不足を平らにしてしまおうということが現実的な目的なのだが、大義名分は学問分野の壁を取り払う大学院教育改革だ。大学院の組織改革は、程度によるけれど、新規の大学院を創設するのと同じような手続きになり、全構成員のこれまでの履歴・業績を集めることから始まるので、その事務的仕事量は半端ではない。こんなところも教員の仕事になる。
一方、日経の記事によると、政府の教育再生実行会議は「アカデミックな教育課程に偏りがちな大学を変革し、産業界が求める「即戦力」となる人材を育てろ」との提言したそうな。「文部科学省は提言を受け、大学の実践的なプログラムを文科相が認定する制度の検討を始めた」らしい。「資格の取得などを目指す教育プログラムを各大学が設けろ」だって。なんてこった。大学とはアカデミズムの塊だろうが。産業界はそんな即戦力ばかり要求するのかよ。「専門学校には既に同様の仕組みがあり、民間企業と連携した様々なプログラムが開設されている」のだったら専門学校に投資すればいいだろ。大学に要求することじゃないだろ。税金を大学に投資する目的は、目先の利益を得ることじゃないだろうが。こんなこともまた大学教員の負荷を増やすことになるんだよね。興味のある研究したいのに流行りの研究でないから、研究費もない、事務的業務ばかり増えて時間もないじゃ、逃げて行きたくなるよね。
大学の自由度を増すために法人化したなんて文科省は言うけれど、現実には金で大学を縛っているんだよね。大学独自の改革であればいいのだけど、文科省のおメガネにかなう改革でないとまずいわけで、大学当局は否定するけれど、天下り理事とか副学長ができちゃうんだよね。文科省役人の狙いだもんね。キャリア役人の所属省庁への忠誠心を保つためには、先細りになる出世街道からはずれる人への仕事場の提供が必須だからね。
腰痛も良くなってきたような気がするけれど、一度、椅子に座ったら立ち上がりたくないので、パソコンの前で、うだうだしているわけですな。休日なのに授業開催日といことで勤務しているのです。
[ 午後に追記 ]
なんとか実習をこなしたぞ。昨日より状態は良くなった。やっぱし、風呂・酒・飯・寝るがよかったらしい。
こんな医者にかかりたくない
うへ! 学とみ子氏て、根拠を示さず、頭の中だけで妄想で文章を書く方なんですな。
だって。こんな医者にはかかりたくない。インフォームド・コンセントで嘘をインフォームドされたら困るよな。一か八の手段は患者側に決定権があるんだよな。
基礎学者は、臨床医の研究をけなす傾向がある。そんないいかげんな研究では、世の中に役立たないと言う。基礎学者は、臨床医の展望や希望が理解できないし、臨床医学は急に進むことがあることも見通さない。
つまり、追及したら本筋はだめだったが、副次的な発見があったなどの、ひょうたんから駒的進歩もある。
なんか、誤解だよね。基礎学者が臨床医の研究をけなすのは、その方法では証明にならないとかいうときで、臨床医の求めていることは理解できていて、あえて言うのだ。
この「つまり」が説明になってない。やったら副次的な発見とか瓢箪から駒で、臨床医学が急に進むことは無いとはいえないが、そんなことを目指して臨床医は研究するのかよ。
こうした基礎学者特有の視点も、今回のSTAP事件の発生に関係していると思う。
はあ?意味不明だ。なにが基礎学者特有の視点で、この視点がSTAP事件のどこに関係しているんだよ?
基礎と臨床の対立する現場の実態が、{ねつ造の科学者}で見れることは興味深い。
はあ?笹井氏が臨床で{ねつ造の科学者}の著者の須田氏が基礎かよ?
少なくとも医学部を卒業した方のようなので、もうすこしまともな論拠のある文章を書いたらいいのではないかと愚考いたしますな。
(まだ腰が痛いので座ってできる、他所様のブログけなしです)
血が逆流するほどの憤激ーその2
筆頭著者の『婦人公論』5月9日号の日記の「血を逆流させるほどの憤激」について、その2です。半分ぎっくり腰で安静なのでネットで遊んでいるわけです。明日にはよくなるでしょう。
tea*r*akt2さんは「STAP細胞への確信を裏付ける」と解釈しているとしたが、 しかし、その後、J・ワトソンさんが「信頼する事務方幹部が裏では研究費返還請求手続きを進めていた」ことに憤激したのだと」指摘しています。
この事務方幹部の行動についての記述は『婦人公論』の日記にしかないので当ブログ管理人にはわからないのですが、日記に書いてあるんでしょう。
では「あの日」には、この論文投稿代請求の部分についてはどう書いてあるでしょ。p231の最後あたりです。
ネイチャーへの投稿を決めたのはもちろん私ではないし、他の人の不正はわからなかっただけで、単独での支払いを強いることは、私を罰する姿勢を対外的にとることだけが目的であり、その姿勢を貫くことに憤りを覚えた。
とあります。
つまり、婦人公論(2017年4月)に書かれていることから判断するワトソン説は(tea*r*akt2さんも指摘を受けて納得している説で)、一見、親切に対応してくれた事務方の上の方の身分の方(個人)が、裏で返還請求手続きを行っていたという裏切りに対する憤激なのに、ご本人の1年前の記述(2016年1月)では、理研(組織)の方針に対する怒りですね。
「あの日」には憤りについては比較的に冷静な記述に終わっているのに、日記では「血が逆流」とものすごく激しい表現で、怒りの対象も異なりますな。 どっちがホントなんでしょうかね。日記のほうは1年後の加筆の可能性があるから後付で、よく考えたら「あいつはひでー奴だ」と言いたくなったんでしょうかね? しかし、感情の起伏についての表現は確かに目を引くところがありますな。サイエンスに足を突っ込まず、ウソでも成り立つ私小説の世界では活躍ができたかもね。でも社会人としての資質はどちらでも必要だから、別の分野であっても大変でしょうね。
しかし「あの日」では「他の人の不正はわからなかった」と不正は共同研究者が行ったと堂々と言い放つのはどういう神経なんでしょね。この場合、どう考えても「他の人」とは”あの人”しかいないわけですね。単に緑に光っただけなのにSTAP細胞はある、データ改変は”あの人”に言われたからやったのだ、自分は不正はしていない、とあくまでも思っているんでしょうね。自分の都合の悪い言動は覚えていられないから、自分では一貫した行動を取っていると思っているんでしょうね。だから他所様から指摘されると、ストレス下なのでなんと答えていいかわからなかった・他人のせいにする・怒り狂うという、すごい人ですな。
血が逆流するほどの憤激
tea*r*akt2 さんのブログ 理研STAP細胞論文調査委員会報告、改革委提言等への根本的疑問 の小保方氏が憤激した論文投稿料の返還請求―石川氏の告発不受理を受けて、NHKのリーク報道と同時に打たれた「追加工作」の一環では? の記事では、『婦人公論』5月9日号の筆頭著者の日記を転載していました。
■他方、論文の投稿料返還請求の発表に対しては、激烈な反応を示しています。
「3月20日(金)
理研が私に論文の投稿料60万円を返還請求することを発表したと連絡を受けた。内臓が突き上げられるかのような悔しさ。血を逆流させるほどの「信じられない」という思い。抗えない感情の渦は、似た感覚を持った時の記憶を連鎖的に呼び覚まし、苦しみの濁流に変わる。「研究の状況を常識的に考えたら、理研が小保方さんにお金の返還を求めることは絶対にありえない」と私に説明をした理研の事務方の幹部がいた。騒動中、大将と名乗っていたのに、いつの間にか本陣を去ってしまった人。思い出すことを避けていた人の顔が頭に浮かび、自の奥で赤い光が弾けた。頭の中も、目に映るものも、すべてが赤い。沸騰した濁流で体が破裂しそう。それでも、心の痛みら感じる体の芯は氷を詰め込まれたように冷え切っている。 」
瞬間的に、人間としての感情が戻った感じです。 血が逆流するほどの憤激をしたということは、小保方氏のSTAP細胞への確信を裏付けるものでしょう。
勿論、婦人公論なんか管理人は買うわけがないから、この記載がホントかどうかわからないけど、tea*r*akt2 さんがすぐにわかる嘘・間違えを書くわけがないだろうとしてこの記事を書いております。
筆頭著者が憤激したということについて、tea*r*akt2さんは「STAP細胞への確信を裏付ける」と解釈していますが、そうではなく、「筆頭著者はなんら不正は行っていないと相変わらず思っている」と解釈すべきことでしょうな。桂委員会の調査では2件の不正を本人は認めているのにもかかわらず、だ。
婦人公論の記事は現在(2017年4月)、2015年3月の日記を(多分、一部改変して)公開しているので、本当に2年前のことを記載しているかどうかはわからないが、現在になっても当時の”憤激”を公開しているということは、当時も現在にいたっても、不正行為を行ったという自覚がなかった・ないのだろうな。
投稿の経費の60万円で済んだのはラッキーで研究費全学返還要求されたっておかしくないところだ。理研は、実験自体は行われたとして、研究費の返還を請求せず、不正な論文を投稿したことについて請求したようだ。理研としては、さっさと始末したいので研究費全額返還請求などして裁判沙汰などにはしたくないのでしょうね。STAP細胞はある、不正はしていない、憤激した、とするのなら、たとえ60万円でも裁判にすればいいのにね。
tea*r*akt2さんは、文章はまともに書けるようだが、そもそも擁護という立場からしか物事を見られないので、「理研のシナリオライターの指揮」とか「各種の情報公開請求などで、「不都合な真実」を裏付ける材料が、今に至るもどんどん出てきています。」、「(理研側には)無理を重ねてSTAP細胞を潰そうとしたということは、その存在によほどの危機感があった」などと、想像・妄想がたくましいようですな。
理研のシナリオライターとは誰なんでしょうね。
不正であったという判定に反する”不都合な事実”とは何でしょ?
擁護の方々が情報公開制度とかを利用したり、発表された図の隅をつっついたりして、桂委員会の発表と食い違うと主張したりしているけれど、そもそもの撤回された論文のデータはどれがホントか、実験を行ったご本人にすら記憶がない・記録もないのでわからないわけで、想像たくましく議論する意味がないと思われますね。
「STAP細胞を潰そうとした」ということはなく、そもそもが怪しいデータであり、ご本人を含め複数の研究者が再現できないことから、自ら潰れちゃったのではないでしょうか。
ES細胞の混入なのであれば、STAP細胞はないわけですから、桂調査委と検証実験報告で一件落着となったはずです。
しかしそれでも、その後も無理筋の攻撃を繰り返したということは、STAP細胞はやはりできていて、それに危機感を募らせているのだろう、というのが、経過をずっとフォローしている人間からみた素直な印象です。
はいそうですね。一件落着になったのです。その後、無理筋でわめいているのが、いわゆる擁護派で、この「わめき」を放置しておくのはまずいんじゃないのと「結論ありき」のブログが立ち上がったわけですね。今では自沈しちゃった某女史が、自らの科学的リテラシーの欠如を認識することなしに科学的根拠のないいい加減な記事を書いたもんで、そりゃ、なんでもまずいんじゃないの?と、頑張っていただいているわけですね。当ブログ管理人は、当初、この「結論ありきブログ」管理人の方が研究者のようだったので、研究に集中したほうがいいよと言ったものの、今になってみれば、結果として、唯一の科学的なコメントが読める場となったわけで、やめたほうがいいよなんてコメントしたことを恥じております。「結論ありき」のブログ管理人さん、ごめんなさい。
「STAP細胞はやはりできていて、それに危機感を募らせている」方って、どこにいるんでしょ?
軍手の使い回し
実習で握力を測定する。いわゆる握力計ではなく、電圧出力のある握力計を使う。目的は握力の値だけではなく、合図があってからどのくらいの潜時で力が出現し最大値になるのはいつかとかを測定させるのだ。つまり握力の値が目的ではなく、機器を使って測定することを学ばせるのが目的だ。だから市販のデジタル握力計とかを使うのではない。下図のような図をレポートに貼り付けて提出させるのだ。さらにクラス全員のデータを集め男女で差があるか、他のクラスと差があるかを検討(検定)させるのだ。

ストレンゲージが仕込んである力を入れる器具は十分角が丸くて(下写真の右のグレイの金属の箱)、力いっぱい握っても手が痛くなるとは思えないのだが、

学生からは痛いというクレームがでるのだ。だから軍手を準備したのだ。手のひらが柔いのだ。ひょっとして雑巾なんか絞ったことがないのではと思うくらいだ。
問題は、最近の若者の潔癖性だ。軍手はいくつ用意したらいいのだろうか?近頃の学生さんは他人の使った軍手を使うのに抵抗があるのだろうか?
手術用手袋は、使い捨てだから、他のヒトが使ったのを再使用というのはありえないだろ。軍手も使い捨てか?
とりあえず、各自、利き手の握力しか測定しないので、班(3〜5名で構成)に軍手の片手だけ1ケを配布してみる。
あの娘が使った後だからいいけど、あの野郎の後は使いたくないなんてのは、新しい軍手の提供を拒否していいよね。
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[ 追記 ] 2017.5.7
アンケートご協力ありがとうございます。締め切りました。
実習を実施しました。他人の使った後の軍手は使いたくないという学生が160名中、一人確認しました。もっといたかもしれませんが、そのような学生は軍手を使わず、素手で握力計を握ったのでしょう。握力計を除菌しろというクレームはありませんでしたね。全員に聞きまわるほと暇ではなかったので正確な人数はわかりません。このアンケートのようなことを学生に実施したら、藪蛇で、次回から軍手を人数分用意するはめになるかもしれません。担当の助教は軍手を洗濯するのもいやだから捨てるといっています。管理人だったら、聞かれたら洗濯済みだといって、洗濯することなしに再度提供するかもね。じじいだから、なんとなく使い捨てに抵抗があるんですな。