単なる難癖だ

「ため息検索AI文章でも、捏造行動があったと書かないのに、ため息さんは、「AIはESねつ造説を支持した」と感じるのでしょうか?」という学とみ子ブログ記事のタイトルに対し、当方はAIは小説を書いてるのでも絵画を描いているのではなく、論理的な回答を出力するのだから、その回答に”感じる”とする表現は不適切だとしました。

これに対し学とみ子は「ため息さんも意味はわかるのだろうから、単なる難癖だ。」と言い返してきました。難癖とは小さな欠点・ミスを大げさに非難することです。
 たとえば、二人でもやしラーメンを注文し提供されたものを比較したら、一方のもやしが3本少ないとクレームをつけるようなことです。提供側にミスとは言えないような小さなミスに対して大げさに非難するわけですね。ということは学とみ子の発言のどこかに、小さなミスとは言い難いようなミスがあり、これを当方が大げさに指摘したと学とみ子は主張することになります。ならば、そのミスとは言えないミスとはなんでしょ?

その後の学とみ子のこのタイトルの真意、あるいは言い換えは「AIが書いてないのに感じる」を解説すると、「AIがESねつ造事実を書いてないにも関わらず、ため息さんは、AIは、ESねつ造行為をサポートしてくれるはずと感じてしまう」とのことです。「AIはESねつ造説を支持したと感じる」と「AIは、ESねつ造行為をサポートしてくれるはずと感じる」に時制の違い以外に差が見いだせません。つまり「支持した」という過去形か「支持するだろう」という未来形の違いだけで、AIの動作についての差は見られず、同一の内容です(*1)。つまり学とみ子はさらに説明を加えて誤解されないように書き換えたつもりなのですが、何も変わってないのですな。

したがって当方がAIの出力を「感じる」という表現は不適切という指摘には何も答えていないことになります。

*1

Q: 記述内容の是非とは関係なく、「AIはESねつ造説を支持したと感じる」と「AIは、ESねつ造行為をサポートしてくれるはずと感じる」に時制の違い以外に差が見いだせません。つまり「支持した」という過去形か「支持するだろう」という未来形の違いだけで、AIの動作の評価に限定すれば差が見られず、結局、「同一の内容を感じる」ということで、ほぼ同じ文章としていいでしょうか?簡潔にお答えください。

ChatGPT: 結論から言うと、**ほぼ同じ文章として扱って差し支えありません。**

理由は、どちらも
* **話し手の主観的な「感じ」**を述べており
* **AIの実際の行為の事実認定ではなく、期待・評価に限定**されているため
* 時制(過去/未来)が違っても、**AIに対する評価内容は実質的に同一**だからです。
厳密に言えば
* 「支持した」=過去の出来事としての印象
* 「支持してくれるはず」=将来への期待
という差はありますが、**意味内容の区別が論点にならない限り、同義的に扱える**と考えてよいでしょう。